離婚調停を乗り切るためには調停委員を味方につける必要があります。極端な話、調停委員を敵に回せばあなたの主張は「どうでもいいこと」と一蹴されてしまうかもしれないのです。
そこで本記事では、調停委員を敵に回さないために気を付けることを解説したいと思います。
調停委員に期待しすぎない
調停委員といってもいろいろな人間が職に就いており、こちらからは調停委員を選ぶことはできません。
調停委員は男性かもしれないし女性かもしれないし、比較的若いかもしれないし高齢者で偏った考え方をしているかもしれません。
実際に日本調停委員会連合会のホームページをチェックすれば、調停委員にもいろんな人がいることがわかるはずです。
参考 調停委員はどんな人?日本調停委員会連合会ですから「無条件に自分の見方になってくれるだろう」とか「弱い者の味方になってくれるだろう」などと淡い期待を抱くのはナンセンスです。
そもそも調停委員はあなたの両親ではありませんので、配偶者への罵詈雑言を嬉々として話しても喜んでくれませんし、同意してくれる保証もないのです。
調停委員に期待すればするほど裏切られてショックを受ける可能性は高まりますので、そのことだけは頭の片隅に置いておきましょう。
調停委員の最大の溝
調停委員と参加者(申立人・相手方)のお互いがお互いのことを「話のわからない人だな」という感情をもってしまう原因は、調停そのものに対するとらえ方にあります。
具体的には、調停員は参加者(申立人・相手方)に「手打ち」を要求し、参加者は調停委員に「納得のいく問題解決」を求めるところにギャップが生まれる原因があります。手打ちとは「納得はできないとしても落としどころに着地する」ことを意味します。
例えば2020年東京五輪におけるマラソンの開催地が東京から札幌に変更することになった時、東京都知事の小池百合子氏は猛反発しましたが、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長から発言を求められ、「IOCに同意はできないが、最終決定権限をもつ国際オリンピック委員会(IOC)の決定を妨げることはしない。あえて言えば、合意なき決定だ。」とコメントしました。
小池百合子氏の発言が「手打ち」そのものなのですが、IOCのバッハ会長と同様に調停委員も「離婚協議でお互いが納得できないから離婚調停に至っている以上、手打ちを模索しよう。」と考えていますし、調停がはじまれば実際にそう誘導しようとしてくるはずです。
つまり調委委員は「最終地点」(落としどころ)を常に見据えているため、参加者(申立人・相手方)からすれば「もう少し議論してほしい」とか「調停委員はまともに話を聞いてくれない」いう不満が生まれてしまうというわけなのです。
調停委員を誘導する
「手打ち」を求める調停委員に「納得のいく問題解決」を求めれば求めるほど調停委員の心は離れていくはずですし、心の離れていく調停委員の様子をみたあなたもイライラするでしょう。(場合によっては調停委員の態度や発言に怒りを覚えるかもしれません。)
以上のような状況を踏まえれば、離婚調停を本当にスムーズに進めたければ、あなたは調停委員の先を行く必要があります。
誤解を恐れずにいってしまえば、「どうしたら手打ちにできるか?」と考えている調停委員にエサを与えるのです。
大事なことなので念押ししますが、エサとはあなたの正当性を支える証拠や、相手方の不備を証明する証拠ではありません。
エサとは調停委員が「これなら離婚(離婚回避)すべきだ」と考えて、本気で相手方を説得してくれるような情報のことです。
例えばあなたが離婚を希望している場合、「関係を修復する余地がない事情」を伝えるのが効果的です。なぜならば仮に裁判に突入した時、不倫やDVといった明確な離婚事由(民法で定められた離婚できる理由)がない場合、「関係を修復する余地があるかないか?」ともっとも重要なポイントになるからです。
例えばある男性は「専業主婦の妻が家事をまったくしない」という理由で離婚を訴えようとしましたが、「このご時世、妻がやらないならあなたが(家事を)やればいい」と調停委員に諭される可能性を考慮して、「何十回も禁酒宣言をしながら破ってきた妻の酒乱エピソード」を伝えることにしました。
それらのエピソードを聞いた調停委員は「修復する余地はない」と判断したのか、「もう旦那さんを解放してあげたらどうですか?」と投げかけてくれたそうです。結局奥さんも何十回も禁酒宣言を破ってきた手前、「もう迷惑をかけない」とはいえず、しぶしぶ離婚に承諾したそうです。
最後に
夫婦のどちらが悪いか?悪いとしたらどれくらい悪いのか?ということを精査するのが理想でしょうが、時間の限られた調停ではそれも無理とまではいわなくても「不可能に近い」というものです。
もしその「不可能に近い」ことを求めるのであれば、調停ではなく裁判に戦いの場を移すことになりますが、果たして本当にそこまでやるのか?ということは立ち止まって考える必要があるでしょう。