ある男性は美容狂いした妻の暴走を止められずに離婚を決意したそうです。
2年年下の元妻はK-POPアイドルにハマっていて、女性アイドルのメークやダンスの真似はもちろん、ライブやイベント参加のために頻繁に韓国へ行っていました。
初めは隙に趣味を楽しめばいいと思っていましたが、次第に生活費を節約し「K-POPアイドルのような肌になりたい」と美容に力を注ぐようになったんです。
そのうち”美容狂い”状態になった元妻は、自宅でのスキンケアだけでは満足できなくなり、エステや美容皮膚科に通いつめ、美容整形を考えるまでに。そしてある日、帰宅をすると目元にボトックス注射、口にヒアルロン酸注射を施し、すっかり顔の変わった元妻の姿が・・・。
その頃には美容のために使われたお金もものすごい額になっていましたし、美容への欲が度を超えて歯止めの利かなくなった元妻を止める方法がわからず、離婚を決めました。
【出典:CLASSY.(クラッシィ) 2020年 5月号】
もしあなたが似たような状況にいたら、どうしますか?
わたしはこの男性の話を聞いて、村上春樹の小説を思い出しました。
トニー滝谷
村上春樹の小説に「トニー滝谷」という作品があり、映画化もされています。
主人公のトニー滝谷(演:尾形イッセー)が結婚した妻(役:宮沢りえ)が「洋服中毒」でして、主人公はこの妻の「洋服中毒」を止めることができません。
宮沢りえの場合、完全に「中毒」でした。ここでいう中毒の定義は「自分でも中毒になっているという自覚はあるが、自分の意志だけではやめることができない」です。
トニー滝谷は「洋服中毒」の妻とどう向き合ったでしょうか?
トニー滝谷の場合は、妻が衝動的に洋服を購入し続けることを黙認し続けました。妻に対して怒りをぶつけることもしませんでした。なぜならば妻を愛していたからです。
なぜ?妻が狂ったように服を購入し続けることを黙認することが「愛」の証明になるのか?と疑問に思う人もいると思うので補足しておきます。
実は愛には「多大なるコスト」が必要なのです。日本人は水も空気も民主主義もタダだと無意識に思い込んでいるフシがありますが、そんなことはありません。同様に「愛」にもコストが必要です。
「愛」の発祥地、フランスではもともと「愛」は貴族のたしなみでした。なぜならば「愛の証明」(病気や死)が高コストすぎて、庶民には真似できなかったからです。
例えば「あなたを愛しているがゆえに熱病にうなされて寝込んでいて・・・・」なんて真似は貴族には可能であっても、汗水流して働いている庶民にはどうあがいても真似できません。庶民である以上、働かなければなりませんからね。
しかしその後、【愛】は庶民の手の届くものになります。
愛 ≒ 結婚??
もちろん庶民の生活が貴族の水準にまで高まったからではありません。「結婚をもって愛の証明とする」という新しい解釈が世界中に広まったことにより、庶民でも【愛】を手に入れることが可能になったのです。
以上の歴史的な経緯を踏まえれば、「その頃には美容のために使われたお金もものすごい額になっていましたし、美容への欲が度を超えて歯止めの利かなくなった元妻を止める方法がわからず、離婚を決めました。」という意見をいってしまう男性には、【愛】はあっても「愛」はなかったのでしょう。
美容に多額のお金を散財する妻が抱える「渇き」を共有してそれを乗り越えることができれば、もしかしたら【愛】ではない「愛」の証明に近づくことができたのに・・・と思うともったいなさを感じる反面、「愛」のコストを支払う気がないならそれもしょうがないという気もします。
「愛」というものは、夫婦の価値観の差異を乗り越えた先にしか手に入れることができません。あなたは【愛】を手に入れたいですか?それとも「愛」を手に入れたいですか?